争いを乗り越える

人間関係がうまくいかないのは・・・

 釈尊は、末法という時代を、「闘諍言訟白法隠没」と説かれ、日蓮大聖人は「立正安国論」に、「人仏教を壊らは復孝子無く、六親不和にして…」(御書249)と示され、末法とは、白法と言われる釈尊の教えは全て力を失い、親に孝養を尽くす子はいなくなり、親子・兄弟・夫婦の六親が不和になり、ひいては、この身内の争いから国家、民族、宗教間の争いまで、闘争の絶えない時代になると説かれています。 近年、日本国内において新たに起こされる裁判の数は1年間に、なんと600万件を優に超えているそうです。まさに闘諍言訟の時代です。 新聞やテレビで、家庭内や学校内での暴力等、人を傷つけたり尊い命を奪うなど残酷な事件が日々報道されています。これらの争いに巻き込まれ自ら命を絶つ人も驚くほどの数に達しています。また、いじめによる児童の自殺者が連鎖して起きたこともありました。

 そもそも、仏法の深い因果の法則から見れば、殺人や傷害、あるいはいじめを行ったものは、その罪の大きさによって、地獄界、餓鬼界、畜生界に落ち、その報いを受けることになるのです。また、このような争いの当事者となるのは、その人自身の過去からの因縁によるのです。 仏教ではこの悪しき因縁の連鎖を断ち切らなければその場を逃れたとしても、また同じ争いが繰り返されると説かれています。

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 また、その苦悩から逃れたいとの一心から、自殺を選ぶ人がいますが、根本的な解決にはなりません。それどころか更なる苦しみの境遇に堕ちることを知らなければなりません。これらの悪因縁を断ち切れるのは、三世の利益を説く日蓮大聖人の仏法を受持し、日々の生活の中で信行を実践するところに一切の苦悩を克服する道があるのです。 大聖人は、「諸経と法華経と難易の事」に、「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」(御書1469)と仰せのように、世間の姿は仏法の正邪によって定まっていくのです。
 個人や家庭の幸せはもちろん、社会の浄化など、全ての功徳・利益は、正しい御本尊に対する信仰によって生まれます。この信仰とは、信・行・学の実践をいいます。
  ①信とは、御本尊に対する信仰心です。
  ②行とは、信仰を確立するための修行です。
  ③学とは、仏法を学ぶことです。
 このうち、「行」には、自らが朝晩の勤行をし、南無妙法蓮華経の題目を唱えていくことと、他の人々に仏法の素晴らしさを教えていくことの2つの意義があります。また「学」には相伝の仏法によって日蓮大聖人の教えを正しく学び、仏様の精神をより深く知るという意義があります。
 信仰によって幸福な境界を得るためには、これらを実践していくことが大事です。