親子信心

 先日、10年前に奥様を亡くされた講員さんから次のようなお話をお聞きしました。

「先日、息子と信心のことで話をする機会がありました。信心深かった妻は、生まれてすぐに息子をお寺に連れて行き、御授戒を受けさせました。以来、妻と息子は、他の信仰をしている私に内緒でお寺に通っていました。それから17年後、妻は突然病に倒れ、あっという間に亡くなってしまいました。私も息子もあまりにも突然の別れに途方に暮れるばかりでした。
 辛く悲しい毎日が続く中で、私は生きる意味を失いかけていましたが、ある時期から、もしかしたら妻が私に日蓮正宗の信心を教えてくれるためにいなくなったのではないかと思えるようになり、息子とともに妻を供養していくことこそ、私の役割ではないかと考えるようになりました。その時から、何事も前向きに考えることができるようになっていきました。
 こうした私の心の変化を息子に話をしました。

 この話に対し、息子は私とはまったく逆の思いに陥っていたことを知りました。
信心深く自分に信心を教えてくれた母親が、なぜこんなに早く亡くならなくてはいけなかったのか。病気の母親をなんとか生き永らえさせてほしいと必死に祈ったのに、なぜ聞き届けられなかったのか。こんな思いから、いつしか信心に向き合えないようになっていったのです。
 息子の話を聞いて、辛かったのは妻を亡くした私だけでなく、母親を亡くした息子も同じように、いや、それ以上に辛かった、そのことを分かってやれなかったことに対して、本当に申し訳なく思いました。同時に、息子の信心に対する迷いをなんとしても払拭し、親子して妻をしっかり供養してやりたいと改めて思いました。」

「妻」を亡くされたことで仏様に会うことができた御主人、一方「母親」を亡くされたことで、仏様を信じられなくなった息子さん。信仰心を保っていくことがいかに難しいかを改めて感じました。

 心地観経というお経には
 過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。
 未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ。と説かれています。

 息子さんには、私たちはみな異なる過去の因を背負いながら今を生きていること、そして、その因の中で、今をより良く生きていくために信心修行をしていることを改めて思い出してもらい、親子でしっかりとお母さんを供養してあげてもらいたいと思いました。