幸せな人生を送るためには

悪いことばかり起きるのは・・・(己の境涯を変える)

 あなたは、「なぜ自分の周りでは、いつもこんな問題が起こるのだろう」とか、「なぜ、自分はいつもこうなってしまうのだろう」と落胆するような場面に遭遇したことはないでしょうか。内容はともかく、その原因を突きとめていくと、そこには大抵、その人自身に、いつも同じような結果を招いてしまう原因(境界)があるようです。
 では、どうすればそのような自分の境界を変えていけるのかということです。人は縁するものや環境に影響を受けるものです。日蓮大聖人は、「立正安国論」に、「悦ばしいかな、汝蘭室の友に交はりて麻畝の性と成る」(御書248)と仰せです。つまり、たとえ境界の低い人であったとしても、徳の備わった立派な人物に交わっていると、その人の良縁に触れて、いつの間にか立派な境界に改革されていくということです。
 そこで信仰とは何かといえば、信じるに足り得る対象を人生の根本として信じ仰ぐことであり、その対象の本尊を最高至極として、合唱礼拝を持って敬う行為に他なりません。ですから信仰は、その人の人生に絶大なる影響力を及ぼすのです。

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 私たちはみんな過去世から今日まで積み重ねてきた善悪の行いによる宿業というものを持っています。その因縁の上から今日の自分というものが存在しているのです。それを一朝一夕に自分の力によって善くしようとか、直そうとかいうことは、なかなかできるものではありません。そこで仏様は、私たち迷える一切衆生に対して徳を積むべく教えを説かれるのです。
 日蓮大聖人の仏法は、人間の生命を解き明かし、人生に指針を与える最も優れた教えです。したがって、この尊い教えを信じ、その教えのとおりに修行する日々の生活を送ることによって、各々が人としての徳を積み、またその中で心の中に秘められた願いを成就し、私たちの持つ信念を、より崇高な信念へと高め、人間性をより豊かに、より充実したものに育むことができるのです。
 数ある宗教の中にあって、一時の気安めや現実からの逃避ではなく、真に一切の人間の苦悩を喜びに変え、大難を乗り越えるための境界へと転換させうる仏法こそ、日蓮大聖人の教えなのです。過去世の罪障を消滅し悪因縁を切る、苦悩に遭遇したとき、とかくそれを他人のせいにし、またその解決方法を別のところに求めてしまいますが、それは一時避難にしかならず、根本的な解決にはなりません。再び未来に同じような苦悩にあい、そこでまた逃避すれば、未来永劫同じ苦しみを流転していくことになります。
 そもそも、私たちの生命は三世の因果の法則の中にあり、現在の己の境界は、自身の過去の行いによる結果なのです。心地観経に「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」と説かれます。したがって今、三世を貫く日蓮大聖人の仏法を修行すれば、苦悩の原因である過去の罪障を消滅させ、悪因縁を断ち切って未来に再び繰り返されることなく、その苦悩を克服して幸せな境界に至ることができるのです。


人間関係がうまくいかないのは・・・(争いを乗り越える)

 釈尊は、末法という時代を、「闘諍言訟白法隠没」と説かれ、日蓮大聖人は「立正安国論」に、「人仏教を壊らは復孝子無く、六親不和にして…」(御書249)と示され、末法とは、白法と言われる釈尊の教えは全て力を失い、親に孝養を尽くす子はいなくなり、親子・兄弟・夫婦の六親が不和になり、ひいては、この身内の争いから国家、民族、宗教間の争いまで、闘争の絶えない時代になると説かれています。
 近年、日本国内において新たに起こされる裁判の数は1年間に、なんと600万件を優に超えているそうです。まさに闘諍言訟の時代です。
 新聞やテレビで、家庭内や学校内での暴力等、人を傷つけたり尊い命を奪うなど残酷な事件が日々報道されています。これらの争いに巻き込まれ自ら命を絶つ人も驚くほどの数に達しています。また、いじめによる児童の自殺者が連鎖して起きたこともありました。


 そもそも、仏法の深い因果の法則から見れば、殺人や傷害、あるいはいじめを行ったものは、その罪の大きさによって、地獄界、餓鬼界、畜生界に落ち、その報いを受けることになるのです。また、このような争いの当事者となるのは、その人自身の過去からの因縁によるのです。
 仏教ではこの悪しき因縁の連鎖を断ち切らなければ、その場を逃れたとしても、また同じ争いが繰り返されると説かれています。

 また、その苦悩から逃れたいとの一心から、自殺を選ぶ人がいますが、根本的な解決にはなりません。それどころか更なる苦しみの境遇に堕ちることを知らなければなりません。これらの悪因縁を断ち切れるのは、三世の利益を説く日蓮大聖人の仏法を受持し、日々の生活の中で信行を実践するところに一切の苦悩を克服する道があるのです。
 大聖人は、「諸経と法華経と難易の事」に、「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」(御書1469)と仰せのように、世間の姿は仏法の正邪によって定まっていくのです。


 個人や家庭の幸せはもちろん、社会の浄化など、全ての功徳・利益は、正しい御本尊に対する信仰によって生まれます。この信仰とは、信・行・学の実践をいいます。
  ①信とは、御本尊に対する信仰心です。
  ②行とは、信仰を確立するための修行です。
  ③学とは、仏法を学ぶことです。
 このうち、「行」には、自らが朝晩の勤行をし、南無妙法蓮華経の題目を唱えていくことと、他の人々に仏法の素晴らしさを教えていくことの2つの意義があります。また「学」には、相伝の仏法によって日蓮大聖人の教えを正しく学び、仏様の精神をより深く知るという意義があります。
 信仰によって幸福な境界を得るためには、これらを実践していくことが大事です。

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持病で不安を抱えているときは・・・(病を乗り越える)

 病気は私たちにとって身近なものであり、だれもがさけることのできない苦しみです。
 日蓮大聖人は、「『病の起こる因縁を明かすに六有り。一には四大順ならざる故に病む、二には飲食節せざる故に病む、三には坐禅調はざる故に病む、四には鬼便りを得る、五には魔の所為、六には業の起こるが故に病む』」云云」(太田入道殿御返事・御書911)
と病気の原因について6つの理由を挙げられています。1には人体を構成する地・水・火・風の四大の不調和による故に、2には食生活、飲食物の節度を守らない故に、3には心の怠慢による病で、生活の不規則や姿勢の不良、運動不足、睡眠不足、過労、精神の不安定の故に起こる病をいいます。4は伝染病であり、現在インフルエンザが猛威を振るっています。5には信仰心を奪う魔の働きによる病をいいます。6には過去世の業による病で、人智の及ばぬ宿命的な病をいいます。

 これらの病を克服するには正しい信仰によって現れる旺盛な生命力で、また信仰の功徳によってめぐり会う良き医師のもとに、正しく治療し、規則正しい食生活を送ることが大切です。
 中でも六の業病は、日蓮正宗の信仰によって過去の罪障を消滅させ、生命の浄化を図る以外に治す道はありません。

 大聖人は、「可延定業御書」に、「業に二あり。一には定業、二には不定業。定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。何に況や不定業をや」(御書760)と仰せられ、業に苦しむ人は、深く過去の謗法罪を懺悔し、大聖人の御教えを信じて、南無妙法蓮華経と唱えれば、不定業はもちろんのこと、さらに定業をも消滅することができるのです。
 そして、「妙心尼御前御返事」には、「又このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か」(御書900)と、病は信心を強盛にするための仏様のはからいであるとも説かれています。

 日蓮正宗の信仰によって、実際に病気を乗り越えた人の体験談に、「この病気になってよかった」(大白法715号)、「本当に人を救うのは、やはり信心しかない」(大白法669号)、「障害を克服できたと自信を持った」(大白法663号)等とあります。苦しみを強い道心に変え、信心で病気を乗り越えた体験談には感動します。頂いた大切な命です。どんなに苦しくても、それを過去の罪障消滅と未来を開く絶好の機会ととらえ、日蓮正宗の仏道修行によって、堂々と病を乗り越えてください。

 人は、苦しいことや悲しいこと、また困難なことに出会ったとき、それを解決し克服する方法について思いをめぐらします。しかし、その解決方法を見出すことは容易なことではありません。
 仏法では、生・老・病・死など人間だれもが直面する人生の本質的な苦悩を根本的に解決する道を説き示しています。そして、その本質的な苦悩を解決せずして、真の幸福はあり得ないと説いています。
 真の幸福とは、観念的なものではなく、因果の道理をもととした日蓮正宗の信仰によって、自己の内面にある健全な生命を確立し、深い智慧と強い心を養うことによってはじめてもたらされるのです。
 どのようにことにも、決して揺らぐことのない安穏な境界、それが真実の幸福なのです。

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生きているのがつらいのは・・・(四苦を乗り越える)


 私たちが、日々を生き抜くうえで避けて通れない苦しみとして、生老病死の四苦があります。
「生苦」とは、生まれ出る苦しみを指しますが、これには生きることそれ自体に伴う苦しみも含まれます。「老苦」とは、年を重ねて老い衰えていく苦しみです。「死苦」とは、人の死そのものに付きまとう苦しみです。
 これらは、すべての人に共通する悩み苦しみであり、インドの釈尊が出家した動機も、この四苦と向き合うことにありました。
この誰一人として逃れることのできない4つの苦しみを前に、人はいかに生きていくのか、生きる意味とは何なのか、そのことを説いたのが仏法なのです。

-四苦を一転-
 末法の御本仏日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経の一法を確立あそばされ、四苦の根源的な解決の方途を示されています。
すなわち、「御義口伝」に、「大地より出現した宝塔の、東西南北の四つの面は、それぞれ生老病死の四つの相を示している。その生老病死の四つの相をもって、我々は一身の塔を飾るのである。しかしながら、我々が生老病死の流転の中で、常に南無妙法蓮華経を唱えていくならば、この一身は妙法に荘厳された生命となり、常楽我浄の四徳の香りを吹くことになる(趣意)」
と御教示のように、大聖人の仏法とは、生老病死という人生の根本的な苦悩さえも、南無妙法蓮華経の受持によって解決し、わが生命の「一身の塔を荘厳」していく教えです。
 まさしく私たちは南無妙法蓮華経と唱えていくことによって、生老病死の四苦を一転して常楽我浄の四徳へと開いていくことができるのです。
 つまり日蓮正宗の信仰を実践することによって「生苦」は、はつらつとたくましく生きることの喜びへと転換され、「老苦」や「病苦」も人生の奥行と人々への愛情を深めることにつながり、さらには「死苦」さえもが人間の尊厳を証明していく力となっていくのです。
 このように、生老病死の四苦を常楽我浄の四徳へと転換させ得る偉大なる大聖人の教えに一日も早く縁をして、自身の悩み苦しみを真に解決していく人生を確立されるよう願うものです。

-四苦八苦-
 ①「生苦」②「老苦」③「病苦」④「死苦」
 ⑤「愛別離苦」(愛する人と必ず別れなくてはならない苦しみ)
 ⑥「怨憎会苦」(恨み憎む人と会わなくてはならない苦しみ)
 ⑦「求不得苦」(求めるものが得られない苦しみ)
 ⑧「五陰盛苦」(人間を形成する要素である色・受・想・行・識の五陰から生ずる心身の苦しみ)
 これらの苦しみも、南無妙法蓮華経の唱題の功力により、常楽我浄の四徳と開くことができる。

-常楽我浄-
 仏界に備わる優れた4つの性質をいう。
 常-生命の永遠
 楽-真実の安楽
 我-自在の境地
 浄-煩悩により汚れず清浄であること
 末法の衆生は、大聖人の顕された御本尊に信をもってお題目を唱えるとき、常楽我浄の四徳を命に顕し成仏の境堺を得られる。

 

経済的に苦しいのは・・・(経済的不安を乗り越える)


 私たちは、様々な苦悩をかかえていますが、実は、苦悩を抱えているときこそ、幸せへの道を得る絶好の機会であるといえます。それは、日蓮正宗の信仰の実践によって、その苦悩を克服し、苦悩の元である罪障を消滅していくことができるからです。

 現在、世界同時不況の影響で、大勢の人々が深刻な経済的不安をかかえています。数年前の新聞には、
「35,000人に迫る人が自殺した。長引く経済環境の悪化が増加の一因と言われている」と掲載されていました。出口が見えない生活経済苦に行き詰まった結果、自殺を選んでしまうことは残念でなりません。
 日蓮大聖人は「崇峻天皇御書」に、「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。この御文をご覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし」(御書1173)と説かれています。蔵に蓄える財産よりも「身の財」、即ち健康や身に具わった技量・才能のほうがすぐれ、その「身の財」よりも「心の財」、即ち人徳や人間性が第一に大切なのであるから「心の財」を積むようにしなさい、と仰せになられています。

 多くの人は、金銭や物が豊かになれば貧しさによる苦悩から逃れられると考え、最も大切な「心の財」ということを知りません。大半は損得でしのぎを削り、かえって苦悩を増幅しているのです。
 大聖人は「御義口伝』に、「七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり。(中略)今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉るは有七宝の行者なり」(御書1752)と仰せになられています。
 「聞」とは素直な心で正法を聞くこと。「信」は正法を信ずること。「戒」は正法を持つことによって悪事を防ぐこと。「定」は、心が全てにわたって動じないこと。「進」は、努力精進すること。「捨」は、あらゆる執着心を捨てること。「慙」とは、自らを恥じる心をもつことです。

 これら7つの宝は、南無妙法蓮華経の五字七字のなかに含まれ、私たちが御本尊を受持し、仏道修行に精進していけば、「心の財」を積むことになるのです。
 そして、この「心の財」を積むことによって「身の財」、そして「蔵の財」も積まれていきます。
 現在、経済的な苦悩を背負っていたとしても、このときこそ、一切の財の元である信心という「心の財」をしっかりと積めば、苦悩の元である罪障が消滅し、少欲知足の喜びを知ることもでき、健康的にも経済的にも恵まれた境界に変わっていくのです。
 このように、経済的な苦悩は、むしろ自他共に幸せを得るための大切な信心の入りロとなるのです。

日蓮大聖人の教え
 仏法は、今から約3000年前、インドの釈尊によって説かれました。釈尊はあらゆる人々を救うために、50年間にわたって説法し、その最後の8年間で出世の本懐(目的)である法華経を説かれました。この法華経の予言どおり、釈尊が亡くなって2000年後の「末法」と呼ばれる時代に、民衆を救済する真実の仏様として出現されたのが、日蓮大聖人です。
日蓮大聖人は、法華経の極理である御本尊(漫荼羅)を信仰の対象とし、その御本尊に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることにより、いかなる人も仏の境界に至ることができると説いています。御本尊に対して純真な信仰に励むとき、私たちは必ず一切の苦悩を根本的に解決し、成仏することができるのです。 

 

御先祖、水子等を正しく供養するためには・・・(先祖を救う)

-お盆には正しい追善供養を-
 お盆の季節を迎えると、まず最初に思い浮かぶのが先祖への供養であると思います。自分にとって縁の深い、または生前お世話になった先祖に対して、真心から供養をしていく、これはとても大切なことです。
 皆さんはどのように先祖を供養していますか。一般的には、家族そろってお墓へ出向き、そこで線香を上げ、手を合わせて帰ってくる、これで供養ができたと思っている人が多いのではないでしょうか。

-お盆の由来-
 お盆という行事は、釈尊の弟子である目連が、亡き母親を餓鬼道という苦しみから救った故事に由来します。
 ある時目連は、亡くなった母の様子を知りたいものと、阿羅漢の悟りによって得た神通力をもって三千大千世界を見渡したところ、母は、餓鬼道というところで見るも無残な姿で苦しんでいたのです。驚いた目連は、神通力を使って母を救おうと何度も試みたものの、自分の力の及ばぬことを悟り、釈尊のもとへ駆けつけ、母を救う道を乞いました。すると釈尊は、「お前の母は生前、自分の欲に目がくらみ、他に施すことを知らなかった。だから死んだ後までも欲心に縛られて苦しまなければならないのである。よって7月15日に、百味の飲食を供えて、十方の聖僧を招いて供養しなさい。そうすれば、母を餓鬼道から救い出すことができよう」と教えたのです。目連は釈尊の教え通りに供養したところ、母を餓鬼道の苦しみから救うことができたということです。
 目連が神通力をもって母を救うことができなかった理由は、目連が悟った阿羅漢果とは小乗の自身の悟りであり、他に利益を及ぼすことはできなかったからです。また、釈尊の教えによって母を餓鬼道から救い出すことができたとは言うものの、実のところは聖僧に百味の飲食を供養した功徳によって餓鬼道の苦しみから逃れたに過ぎなかったのです。

-真実の成仏-
 このことについて末法の御本仏日蓮大聖人は、「真実の成仏は、のちに目連が法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱えたときに、初めて自分自身が仏になり、その功徳によって父母を成仏に導くことができたのである」と説かれています。
 要するに、目連が母を救う要因となったのは、神通力でもなく、百味の飲食を供えたことでもなく、目連自身が法華経を信じてお題目を唱えたことによるのです。
 先祖の供養を怠り、苦しむ父母を救わずして、自分は不自由なく心に任せて楽しい生活をしているならば、先祖はどんなにか恨みに思うことでしょう。
 今日あるわが命は、先祖のおかげであることを忘れてはなりません。
 日蓮正宗寺院においては先祖や有縁の故人の供養ために、塔婆供養の法要を執り行っています。
 この塔婆供養は、地・水・火・風・空の五大を表す五輪の形をした板に、妙法蓮華経の題目と先祖や故人の戒名や名前をしたため、御本尊のもとで読経・唱題・回向をすることにより、その塔婆は故人の生命が仏と共にあることの草木成仏の不思議を現じ、追善供養がなされます。
 日蓮大聖人は、「いかにもいかにも追善供養を心及ぶほどはげみ給うべし」(野殿後家尼御返事・御書338)と仰せられています。
 あなたも真心からの追善供養を行うべく、有縁の日蓮正宗寺院に御参詣され、正しい先祖供養を行ってください。