あなたの人生の目的とは

人生の関わり合い
 自分の人生を考えない人はいないと思います。中には深く考えていないという人も、会社では上司と合わなかったり、友達とうまくいかなくなったり、社会に上手くとけ込めなかったりした時など、自分では考えていないようでも、『何でこんな目に遭わなければいけないのか』とか、『今日はラッキーだった』とか、現実には色々な事に遭遇して生きているのです。これは、老いも若きも皆同じであります。即ち、何かの関わり合いにより“人生”を歩んでいるのです。


信仰との関わり合い
 では、信仰の正邪によって人生の幸不幸の道があると考えている人は一体どれぐらい居られるでしょうか。『考えていない』、それが実情だと思います。何故か?それは、自分の人生と信仰は関係はないと思っているからです。特に世間では、先祖からの宗旨、人間関係で新興宗教への入信、親が言うから、あの人がしつこく言うから渋々しているという人もいると思います。しかし此処が一番大きな誤りなんです…自分の信仰が、その人の人生を決めていくのです……自分は無神論者だから関係ないという人も、その無神論という一種の信仰そのものが、その人の人生を決めているという事です。


信仰の目的
 今、自分の生活はつまらないという人。いつも何か良い事がないかと思っている人。そういう人は正しい信仰を持っていない人か、或は持っていたとしても信心修行していない人と言う事です。そこで、考えなければいけない事は、我々は “何の為に生まれてきたか” という事です。この目的が見えないから、やる事も分からない、何が大事か分からなくなっているのです。私たちは何の為にこの世に生を受けているのでしょう?


日蓮大聖人様は「日蓮は小(わか)きより今生のいのりなし只仏にならんとをもう計りなり」(四条金吾殿御返事1179)
「此の度必ず必ず生死の夢を覚まし、本覚の寤(うつつ)に還(かえ)って生死の紲(きずな)を切るべし。今より已後は夢中の法門を心に懸(か)くべからざるなり」(三世諸仏総勘文教相廃立1426)と仰せられてます。
つまり、人生に於て大事なのは、一に掛かって、世間的な名聞名利ではなく、真実の人生の宝、成仏の境界を得ていく事だと思います。


人生の宝を得る
 故に大聖人様は『十八円満抄』に、「総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。所詮時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし」(御書1519)と仰せです。― そうです成仏のためです。―
では、成仏とは何でしょう?
世間で言うように死ぬ事でしょうか?
或は死んで初めて分かる事でしょうか?
もちろんそれもあります。しかし、違います。


人生の宝とは成仏
 成仏とは、大聖人様が『一生成仏抄』に、「衆生即菩提(ぼだい)なり生死即涅槃(ねはん)なりと明かせり。又衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」(御書46)と仰せられて、仏とは私たちのこの命の中にあるのであり、その命が汚れていると地獄です。地獄の命は、いじめにあったり、いやな事があったり、そして人生が辛くなるのです。以前読んだ、小説「対岸の彼女」に次ぎのようなフレーズがありました。『私は周りに子供がいないから成長過程に及ぼす影響とかそういうのはわかんない、けどさ、一人でいるのが怖くなるような沢山の友達よりも、一人でいても怖くないと思わせてくれる何かと出会うことの方がうんと大事な気が今になってするんだよね。小夜子は正面に座る葵をじっと見つめた』《高校時代、自殺を図った》

成仏の境界というのは、ある意味、この小夜子のように一人でいても怖くなくしてくれる何かと出会う事だと思います。でも、世間にはないんです。唯一、御本仏日蓮大聖人様に出会うしかないんです。『人生において、自らの命の力を用いないで、不安解消のために友達を求めたり、働かないで安易な楽を得るためにお金を求めたり、自尊心や自己保全のために地位や名誉を求めるのではなく、一人でいても怖くないと思わせてくれたり、自らの命の力を出させてくれる御本尊様に出会うことが大事なのです』

 

人生と生命

 人生は強く生きること命は浄い力を用いること…命の力で、浄い命になるとその命が強い命に変わります。人生で思うようにいかない事に遭遇してもそれに負けない、また守られる人生、乗り越える人生に変われると言う事であり、成仏とは自分の命が浄く、又、強く成る事です。
 そして結果として自分の人生を自分の力で強くたくましく生きていけると言う事です。

 

仏になる道

 では、成仏のためには何が必要でしょうか。日蓮大聖人様は、「衆生と云ふも仏と云ふも亦此くの如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(一生成仏抄46)
と明快に我々の修行のあり方をお示しであります。只、日蓮大聖人様・戒壇の大御本尊様に南無妙法蓮華経と唱えていく事。そしてこの自行化他に亘る南無妙法蓮華経は、事を事に行じる実践にあるのですから、御法主上人御指南の如く唱題を重ねる事、講中活動に動く事、折伏に動く事、この実践に尽きるのです。その活動の第一歩が正法を教えてくださる日蓮正宗の寺院に参詣することです。その実践の中で、「徳が積まれて人から信頼されるようになり、正しい考え方や判断力が備わります。そして希望に満ちた人生を歩むことが出来るようになる」と、お経文のなかで約束されています。


 皆さま 成仏の境界を開いて『人生の宝』を得ていくため一歩を踏み出しましょう。そして、その為にも、最寄りの日蓮正宗の寺院の門を叩いて下さい。いつでもお待ちしております。

2020年03月14日